経済学に関して全くの門外漢な俺は出しゃばって議論に参加することも、どちらが正しいとか間違ってるとか言うこともしない。あまり興味を持てる議題じゃない、というのもある。それでも今回これに言及したのは、リフレ政策の是非よりその周りにいる人たち。いわゆるカツマーと呼ばれる人たちと反リフレ政策派のやり取りが面白いなと思ったから。
ここで言われる“戦争”とは必ずしも戦争そのものではない。彼らにとっての戦争とは社会が例外化した状態の極致として用いられる喩えなのだ。だから“戦争”という単語だけ拾い上げ日本には憲法9条が云々のような話をする人は見当外れな議論をしている。
現代で社会は成熟期を迎えたと言われる。モダン(近代)の次だからポストモダンなどとも言われる。果たして今はモダンの次なのか、我々はモダンを脱したのかと疑問を持つ人も居るだろうけど、実は未だに決着がついてない。とにもかくにも成熟した社会といわれる現在だが、それじゃ成熟した社会とは何か。全ての人間が在るべき所に収まり、争いや諍いが起こらず、平和が保たれている状態が続くことである。成熟した社会とはドラマ無きドラマが永遠にリピート再生されることを言う。タイトルにも付した“終わりなき終わり”とは成熟した(と言われる)現在の世界である。
だが終わりなき終わりを生きる人間は嫌でも壁に直面する。終わりなき終わりを生きるのは停滞と同義語ではないか。前に進んだつもりでも実は同じ所をグルグルと回らされている。再帰性に捕らわれているのではないか。それを良しとする方向に議論を持って行きたかったら、今は皆が自由と平等の理念の下、平和に暮らせているのだからそれにイチャモン付けるのは無駄に争乱を招くだけだ、という風に話を持って行くのがひとつの方法としてある。
だがだが。本当に自由と平等など存在するのだろうか。権力者が自分たちを懐柔するため、ありもしない自由と平等を持ち出し、我々は踊らされているだけなのではないか。本当に社会は平等か? ワーキングプアや派遣斬りを如何にも格差は許すな、格差は社会の敵、自分たちは正義と批判する大手マスコミが平均年収1000万円前後のスーパーエリートで、番組制作を請け負っている下請けの制作会社社員の収入はテレビ局員の何分の一。何か問題が起これば「制作会社が制作を担当した番組のため局では事態を把握しきれず」とトカゲの尻尾切り。マスコミは頻りに自由と平等を持て囃すが、マスコミ内部からして平等ではない。
マスコミは嘘つきだ。信じられない。許せない。権力は敵だ。その思いが現代にネット右翼なるものを生み出したのではないか。遡るとネット上の反マスコミが激化したのは2002年の日韓ワールドカップ辺りのようだ。あの大会で見せた韓国のラフプレー、それを審判が流す姿に多くの人がホームタウンデシジョンを感じ、ネットで韓国を調べ「マスコミが報じない韓国の真実!」として広まったのが発端と考えられる。
何を隠そう数年前までネトウヨ予備軍の立ち位置だった俺だが、内部から見たネトウヨはイメージほど左派との距離がないように感じた。ネトウヨが目指すのは絶対的な権力の妥当である。象徴天皇制を批判する左派にこそ言えそうだ。日本で最もアンタッチャブルな権力は間違いなく象徴天皇制である。いくら言論の自由が認められた時代と言っても半端な覚悟で首を突っ込んだら大火傷する。それよりは一段落ちるかもしれないがネトウヨも絶対的(と信じられている)権力を打倒しようとする。彼らが攻撃するのは前述したマスコミである。
マスコミの体質やマスコミの垂れ流す情報に不信感を持った彼らは、絶対的な権力を相対化するため対抗馬を立てる。インターネットはマスコミが報道しない不都合な真実も掲載し、誰でも身分に関係なく議論に参加できる開かれたメディアだ――という主張を展開するのだ。
だからネトウヨの主張を辿っていくと最後は「マスコミは敵」に行き着く。
以前にも引用したゴア・ビダルの
「米国は一党政治である。ただし、この政党にはライトウィング(右派)が二つあり、ひとつは民主党と呼ばれ、他は共和党と呼ばれる」 は日本のインターネット言論にも応用できると思う。
今のインターネット言論は「反権力党」とでも言うべき一党体制である。残念ながら政党として正式に認められて居らず議員も在籍してないが、党員の数では自民も民主も比べものにならないくらい多い。全国のインターネットユーザー、あるいは反マスコミ、反権力を掲げる市井の人々が党員なのだから人数など数え切れない。
党員が多いと意見も種々雑多なものが集まる。その中で(一見すると)右と左のイデオロギー論争が活発化する。ネトウヨやネトサヨと呼ばれる人たちだが、互いに根底にあるのは「格差是正」に代表される社会の不均衡を解消すること。これ以上は権力者の横暴を許すなという姿勢だ。自由と平等を謳った社会がニセモノだったと気付いても、自由と平等自体は何処かに存在すると諦めてない。まだ見つけてないだけだとの思いを捨てられない。とてもナイーブな人たちだ。自由と平等なんて嘘なんだよ。幻想、妄想、本音と建前で言えば建前なんだバーカ! と言う人はまだ少数派だ。確実に増えてきてはいるが。
今は若者を中心に日本が、特にネット上の言論が右傾化していると批判されるが、元ネトウヨ予備軍だった俺の個人的な感想を言わせてもらうと、ネトウヨも広義の意味では左派である。右派と左派を区別する線があるとしたら、ネトウヨはセンターライン寄りの左派なのだ。
リフレ派のリフレ政策に対する期待、赤木が戦争に望むシステムが例外化した社会の到来には、共に現状への希望の無さが表れている。
反リフレ派はリフレ待望論を「ルサンチンマンの口実」と言う。
ルサンチンマンの力-池田信夫 blog 先日の記事で勝間和代氏のリフレ提言(?)にコメントしたら、すごい反響があった。誤解をまねくといけないので補足しておくと、私は勝間氏の本は立ち読みしかしたことがないので、中身はよく知らない。前に彼女の本についてブログで書いたら、本人がコメント欄に登場し、私に会いたいということで話をしたが、「私の本は中身じゃなくてマーケティングなんです」とのことだった。 そういうわけで私は彼女の著作について語る資格はないのだが、たまたまきょう発売の『VOICE』に斎藤環氏の「“勝間和代ブーム”のナゼ?」というエッセイが出ていた。私がおもしろいと思ったのは、斎藤氏の次のような分析だ:
なるほど勝間氏自身は、自己変革に成功して、その「パーソナル資産」を「社会変革」に向けられる立場に到達しえたのかもしれない。しかし著書を読むかぎり、勝間氏の影響力は、圧倒的に「自己啓発」に比重が置かれている。[・・・]だから「カツマー」たちのほとんどは、自己啓発のほうに夢中で、社会的な問題意識ははっきりいって乏しい。私は経験的に確信しているが、「インセンティブ」としての「自己啓発」と「社会変革」とは、ふつうはまず両立しない。
勝間氏の「社会変革」についての提言が、デフレ論をはじめとしてトンチンカンなのは、彼女の得意分野が「自己啓発」だからなのだ。後者の分野では、彼女は現代の日本でほとんど並ぶもののないエクスパートだが、斎藤氏も指摘するように、社会変革と自己啓発は逆のベクトルをもつ心の動きである。前者は社会の現状を変えようとする外向きの動きだが、後者は現状を所与として「がんばれば報われる」と考える内向きの動きである。 この二つの動きを駆動している心理は何だろうか。私は、ニーチェのルサンチマン という概念が似合うと思う。これは社会的弱者が抱く恨みや劣等感のような屈折した感情で、それが社会への攻撃に向かうと共産主義のような運動になり、内側に向かうとキリスト教のような宗教になる。乱暴にいうと、キリスト教は貧しい人々のルサンチマンに偽りの救済を売り込む史上最大の自己啓発運動だ、というのが晩年のニーチェの主張だ。キリスト教の与える「人生の意味」は偽りだから、その神学をつきつめると「人生に意味はない」というニヒリズムにたどりつかざるをえない。 斎藤環氏の心理学から見たカツマーブームの考察は面白い。だが読むと心配になってくる。
「弱さ」を口にできない立場 現時点で、「勝間和代」に対する最大の批判としては、香山リカ氏の『しがみつかない生き方』(幻冬舎新書)がある。皮肉なことに本書はベストセラーになってしまい、それまで「ベストセラーが出せない」と愚痴っていた香山氏の願いを「勝間和代」が叶えてしまうという奇妙な事態を招いてしまった。 それはともかく香山氏は、本書で次のように書いている。 「私は、『がんばれば夢はかなう』とか『向上心さえあればすべては変わる』といったいわゆる“前向きなメッセージ”を聞くたびに、診察室で出会った人たちの顔を思い出して、こう反論したくなる。『あの人はずっとがんばっていたのに、結局、病気になって長期入院することになり夢は潰えたじゃないか』『両親とも自殺して、育ててくれた祖父が認知症になっている彼女が、どうやって向上心を出せばよいのか』」 私の担当している患者には勝間本の読者がほとんどいないので、香山氏が指摘するように勝間本を読んで「うつ」になっている人にはまだ会ったことがないのだが、勝間氏の本を読んでいると、たしかに「人間の弱さ」「だらしなさ」「理不尽な宿命」といった、人間性の重要な一部への配慮がきれいさっぱり切り捨ててあるように思われてならない。 そんななか、雑誌『AERA』が、勝間vs香山対談を企画したとのことで、さっそく読んでみた。いきなり冒頭からこんな応酬である。 「勝間 香山さん、家事は好きですか? / 香山 好きじゃないです、全然。/ 勝間 私、好きなんです。洗濯物がパリッとなったり、お皿がピカピカになったりするプロセスが大好き。自分の行動で物が変化するって、楽しくないですか。だから私、ご飯を食べて『ああ、おいしい』と思うだけで毎日が幸せです。今日も昼間、子どもの友達とお母さんたちがうちに遊びに来たんですが、デリバリーでとったサンドイッチがおいしくて、幸せでした。/ 香山 ご飯で幸せになれるんだったら、別に仕事で成功したり、資産を増やしたりしなくてもいいんじゃないですか。」 香山氏の指摘は、鋭い突っ込みというよりは、「ナイスボケ」的な皮肉が込められている。しかし香山氏はわかっているはずだ。勝間氏はもはや、こういうベクトルでしか発言できないキャラクターをつくり上げてしまっていることを。そう、彼女はもはや、現在形で「自分のダメさ」や「弱さ」を公式の場ではけっして口にできない立場にいるのだ。全国におそらく数十万人はいるであろう「カツマー」を失望させないためにも。 略 人を動機づける難しさは、「ひきこもり」の臨床で十分に経験済みである。少なくとも彼らにだけは、けっして「自己啓発」を促してはならない。彼らの内面にはできるだけ触れずに、環境を変え、家族を変え、少しずつ行動を変えていくことで、ふと気が付いたら内面も変わっていた、という方向づけが必要になる。 つまり私がいいたいのは、人びとを「自己啓発」に誘導しすぎると、その人たちの何割かは、「耐えるべき試練」と「変えるべき問題」の区別がつきにくくなりませんか、という懸念なのである。
再び何を隠そうという話になるが、医者からパキシルもらっていた身としては勝間和代女史のような考え方は、典型的な鬱病患者に多い「自分で自分を許せない」人間に重なって見えてしまう。現在は鬱病にも「自分を許せない人間」が罹る鬱病と「自分を甘やかす人間」が罹る鬱病と二種類ある、という意見があるらしい。誰か詳しい人に聞いてみてください。
ある日ポッキリ折れて勝間女史が立ち直れなくなるとしたら、間違いなく前者のグループに入るだろう。対談相手としてではなく患者として香山リカ先生を訪ねる日が来るのではないか、と、お節介にも思ってしまう。
人間の努力が及ぼせる範囲は狭い。この世には頑張ってもどうしようもない、達成できない事が存在する。それは事実として受け止めざるを得ない。もちろん最初からそれを口実に努力せず結果に文句ばかり言ってる馬鹿たれどもはケツを蹴り上げられても仕方ない。そんな奴らをこそ俺は憎む。だが頑張れば事態は好転する、必ず努力は報われる、こんなに苦労したんだから報われて当然だとする考え方はやめた方が良い。最後は自分で自分を傷つけてしまうことになる。
「勝間教」の有効範囲は限定的 さて、「勝間和代ブーム」が宗教であるとして、それはいかなる教義をもつのだろうか。 先ほど述べたとおり、勝間氏には、彼女が提唱する方法論ほどには独自の思想や主張があるわけではない。むしろ彼女が提唱する方法論にこそ、教義の本質があると見るべきだろう。それはどういうものか。 一言でいえばこうなる。「できるかぎり情報を取り込み、できるかぎり情報を発信しなさい」。そう、「Give5乗の法則」も「フォトリーディング」も、あるいは「三種の神器(デジカメ、ICレコーダー、メモ帳)」も、すべては情報の新陳代謝を活性化するためにある。この教義は、次のようにも言い換えられる。「コミュニカティブであれ。されば報われん」と。 もしそうだとすれば、それは「勝間教」というよりはむしろ「Google教」とでも呼ばれるべきものだ。勝間氏はその熱心なエヴァンジェリスト(伝道師)なのである。 略 その本質にあるのは、広義の「コミュニケーション偏重主義」だ。商売としてみるなら、これは本当に慧眼としかいいようがない。カツマーに多いであろう「じぶん探し」系の「若者」(〜40代)は、一般にコミュニケーション志向が強いからだ。彼らが「コミュニケーションを一生懸命やればやるほど、成功できる」というメッセージに飛びつくのは当然である。ただし自己啓発のほとんどは「気の持ちようで気の持ちようは変わる」(中森明夫)という程度のものであることも、念のために言い添えておこう。 しかし実際には、「Google教」の有効な範囲は、ごく限られている。 雨宮処凜氏との対談を読むと、勝間氏はニートやフリーター対策の必要性を認めながらも、その本質についてはほとんど理解していないことがわかる(『勝間和代の日本を変えよう』朝日新聞社)。とりわけ雨宮氏が、高学歴の若者がなぜ就労できないかという理由として「コミュニケーション能力」を挙げたにもかかわらず、勝間氏はすぐ家庭教育の問題に話をそらしてしまい、この重要なトピックを掘り下げようとしなかった。 勘の鋭い勝間氏のことだから、この話題を延長していくと、いまや社会全体を覆い尽くしている「コミュニケーション偏重主義」の問題に辿り着くことに気付いたのかもしれない。さんざん情報の新陳代謝を促してきた手前、それはさすがにまずかったのだろう。 略 意外にも勝間氏と意気投合して語り合ったらしい西原理恵子氏が、対談後に添えた漫画でこんな科白を書いている。「勝間ほんまは男選びのグーグル化が一番必要ちゃうんかっ」(前掲書)。 じつは私が勝間氏に求めたいのは、こういう視点である。ふとわれに返って「カツマーとかうぜーよ、『信者』かよ」とか「自分をグーグル化って、なんじゃそら」とうっかり呟くような自己ツッコミとユーモア。信者は多少離れるかもしれないが、言論人としての信頼感が数段上がることは保証する。
現代は馬鹿な方が生きやすい。こんな時代に生きる意味なんぞ考えても自傷行為にしかならない。何処か適当な所で折り合いを付ける方が長生きできる。心理学の香山リカ女史は“しがみつかない生き方”と言い、社会学の宮台真司氏は“選択的鈍感性”と言う。宮台の選択的鈍感性は“選択的鈍感性と単なる馬鹿”で完成型だが。
今の社会は真面目に向き合えば向き合うほど傷つく。なら選択的鈍感性はひとつの生き方ではないかと説く。これに関しては「そんなことで生きる悩みから解放されるなんて、ずいぶん薄っぺらく安っぽい精神性だな」と批判する声もネットにはある。人によってはそうなるだろう。
宮台が選択的鈍感性と単なる馬鹿と二種類に分けているのは、問題を知っているからこそ――クリティカルな痛みに直面したからこそ退却することを選んだのか、何も知らないまま相対的な幸不幸に一喜一憂し、本質である「何処にでもある不幸の、構造的な不可避性」を忘れてしまったのかを問題にしているからだ。
『世界の中心で、愛をさけぶ』は「特別な困難に阻まれる愛」という伝統的な物語だ。「特別な困難――白血病による死――さえなければ幸せになれたのに」などという誰も信じてない大嘘を、敢えて真実であるかの如く語る「死にオチ映画」である。 『21グラム』は真逆だ。「特別な困難さえなければ幸せになれたのに」などというリグレッドが全くの大嘘でしかないことを、断定的に描く。片や、大嘘を真実であるかの如く真顔で語る『世界〜』。片や、真実ではなく大嘘だと真顔で断じる『21グラム』。対照的である。 だが行定勲監督自身は「特別な困難さえなければ幸せになれた」などと信じてはいない。だからこそ原作とは異なり、不全感を抱える成人男子が未完の過去を回顧する村上春樹的な構成になる。未完の過去を輝きと見なす、主人公さえ自覚するだろう現在の錯誤を、利用する。 イニャリトゥ監督の映画も、「あの事故さえなければ、クリスティーナは夫の命を奪われず、改心したジャックは堅気の人生を貫き、心臓病のポールは地獄巡りを経ずに天寿を全うしたはず」とのリグレットを消去するべく、時系列を寸断する。だが『世界〜』と違って圧倒的に不人気である。 略 時系列の寸断を難解だと見なす感受性は、読解力の不足よりも、むしろ「何処にでもある不幸の、構造的な不可避性」という前回述べた原罪論的な主題への、無関心ぶりを象徴するだろう。相対的なラッキーとアンラッキーにしか関心を寄せない日本の観客の、幸せな軽薄さがある。 とすれば、行定監督『世界〜』への観客の反応をどう解釈するべきか。「特別な困難さえなければ(自分は)幸せになれたのに」などという馬鹿げた大嘘を、観客がまことしやかに信じているのだろうか。とすれば、何やら恐ろしい事態が展開しているというほかない。 観客が「世の中に真面目に向き合っていない」のだ。確かに前述した通り、「世の中に真面目に向き合わない方が自分も周囲も幸せになれる」。とはいえ、解離や鬱に陥らずに幸せに生きる「選択的鈍感さ」の道が、『世界〜』に涙することであるならば、この幸せは貧しすぎる。 敢えて図式的に言う。「誰もが耳を傾ける法螺話」が「誰も耳を傾けない真実話」に優先するのは、真実話に耳を傾けない理由が「もうとっくに知っているから」である場合に、限られる。
赤木智弘の「私は戦争を望む」という言葉は方々に衝撃を与えたらしい。だが果たして全く考えられなかった思想だろうか? 閉塞や停滞が付きまとう時代には誰かが唱える決まり文句ではないかと思う。この事態を打開するためには社会を引っ繰り返すしかない。今のシステムが滞りなく運営されたままでは自分たちにチャンスが廻ってこない。
憲法9条が強烈な拘束力を発揮する日本で「戦争」を口にしたことの衝撃はあったろう。だが、例外状態の到来を願うのに戦争を持ち出すのは、想像力としては陳腐な部類に入らないかいう疑問もある。
そういう話が欲しいなら漫画
『オメガトライブ』 を読むといい。続編で完結編の『オメガトライブキングダム』はこれから読む。
しかし自由と平等を追い求め権力批判した先は何があるんだろう? ロベスピエールやナポレオンのような人材を今の人間は望んでいるんだろうか?
全ての権力を打ち倒した先に待っているのは人間が誰でも平等な社会ではなく、より強い野心を持った人間が成り上がる弱肉強食の世界だと思うんだが。でも。それが“民意”だと言うなら仕方ない。
直木賞受賞後、西洋史を離れ、戦国期の日本や近代のアメリカなどを舞台にし、あえて未開拓の分野に挑んだ意欲作の発刊が続く佐藤氏。本作は主軸である西洋史に立ち返り<フランス革命>を書き尽くす、ライフワークとなる第1巻。フランス革命の定番本となること必至。 破産に瀕したフランス国王ルイ16世は、全国三部会の開催を決定。 1789年、聖職者代表の第一身分、貴族代表の第二身分、平民代表の第三身分、ぞれぞれの議員が全国から選出され、ヴェサイユへ向かう。第三身分に選出された議員の中には若き弁護士・ロベスピエールや、聖職者シェイエスの姿もあった。 特権二身分の差別意識から、なかなか進展しない議会に業を煮やした第三身分議員たちは、自らを国民議会と宣言。貴族でありながら第三身分の指導者であるミラボーの裏工作も功を奏し、第一身分から第三身分に合流する議員が出始め、議会はようやく動き出す。 そんななか、国王が国民議会に解散を要求し、国民に人気のある平民大臣ネッケルを罷免、人民の怒りは頂点に達し、フランス各地で暴動や一揆が起こり始める。
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