*ネタバレあり 映画『グエムル-漢江の怪物』感想

2009年10月13日 22:18

内容(「Oricon」データベースより)
ソウルの中心を南北に分けて流れる雄大な河・漢江(ハンガン)。休日で人の賑わう河岸に突然、正体不明の巨大怪物“グエムル”が現れ、人々を襲い始める。さらに売店の店番をしていたカンドゥの目の前で、愛娘・ヒョンソがさらわれてしまう。カンドゥは父・ヒボン、弟・ナミル、妹・ナムジュと共に愛娘の救出に向かう…。世界中を震撼させた恐怖と興奮と迫力のモンスターパニック・ムービー!


 この映画はことごとく主人公一家の成長、怪物への反撃、物語のカタルシスを踏み外す。カンドゥは怪物から逃げる際に娘と知らない女の子の手を取り違えヒョンソを置き去りにしてしまうし、銃に弾が一発残っていると言い父ヒボンに渡すが実は数え間違いで、息子の言葉を信じ怪物にトドメを刺そうと待ち構えていたヒボンは殺されてしまう。自分の単純なミスで父を殺してしまったカンドゥは茫然自失。無意味に泣くばかりで彼をウイルスの保菌者だと決めつけ追ってきた軍関係者に身柄を拘束されてしまう。

 怪物に連れ去られた娘が生きていると訴えるカンドゥの叫びは精神錯乱者の戯言と聞き流され、終いには前頭葉にウイルスの影響が現れているのではないかと針を刺されてしまう。

 怪物との最終決戦で元学生運動家の弟ナミルは火炎ビン持参で現場に駆けつけるが、トドメの一撃となるはずの場面で最後の一本を手から取り落としてしまう。これをアーチェリー選手の妹ナムジュが火矢にして怪物へ突き刺すことで何とか物語は解決へ向かうのだが、この家族ずっと見ていると本当にダメダメである。それ以前にナムジュも怪物に向け矢を構える場面で全く良いところ無く一撃で排水溝に落とされ失神している。

 カンドゥを初めとする一家のダメ人間演出、カタルシスの意図的な踏み外し、子供のために右往左往する父親の必死さを離れた場所から笑うような撮り方。これらが『グエムル-漢江の怪物』の特徴である。

 この作品では白人、殊にアメリカ人が出しゃばって事態を大きくしているため、韓国人の反米映画だと見る向きもある。確かにそう見える。勝手に大騒ぎして事態を大きくし沈静化不可能なところまで持って行った。しかし、そこに狡知に長けたアメリカ人、すべてを思い通りコントロールしようとする悪辣な白人像はない。

 言ってしまえばこの映画。最初から最後まで偶然と勘違いで出来ているのだ。

 怪物が生まれたのも博士(やっぱり白人)が助手に薬品を川に流して処分しろ。大丈夫、漢江は広いからと訳の分からない理屈を言い出したことが切っ掛けだが、そこに薬品を処分しようとする以上の意図はない。怪物は未知のウイルスを持っていると言いだし、カンドゥのヒョンソは生きているとする必死の訴えを華麗に無視したアメリカ人医師も、自分の持てる知識と職業意識から決断を下したに過ぎない。まあ、ウイルスが発生したと大騒ぎしてみたが、先に死んだアメリカ人兵士の身体から発見されず、体面を保つためには是が非でもカンドゥから検出したい大人の事情があったのは事実だが。

 ただ、カンドゥの涙ながらの「ヒョンソは生きている。携帯に電話あった」を無視したのは、韓国人の警官と医師の方が先である。この点ではカンドゥの言葉を無視したとアメリカ人ばかり責められまい。

 少数の人物が下す恣意的な決定ではなく、偶然や勘違い、人知の及ばぬ範囲で歴史や社会は動かされ、その大いなる営みの前に人間個人など無力である。そんな監督の呟きが聞こえてきそうだ。

『グエムル-漢江の怪物』では有り触れた家族愛をブラックに笑い飛ばす。

 遺体安置所でヒョンソの遺影を前に泣き崩れ喧嘩する一家。その様子を撮影しようと群がるカメラマンたち。一段高いところから全体を俯瞰して撮る視点は、これらを女の子の死に涙する美しい家族愛と、それを飯の種にする汚いマスコミなどといった芸も捻りもない枠に収めようとはしない。双方とも等しく滑稽な存在として描かれる。

 カンドゥの娘を想う訴えも彼の愚鈍さ、弁舌の鈍さ、何より冷静さを欠いた感情的な話し方のため周囲の誰も取り込めず、弟にまで「お前は邪魔だからしゃべるな」と遮られてしまう。

 家族愛は確かに美しい物かも知れない。世の中にはそれが全てだと言う人も居るだろう。だが、それらはすべて社会が平和を維持している状態、日常的な世界での話である。怪物の出現により無理やり非日常の世界に引きずり込まれた時点で、カンドゥ一家が必死に追いかける家族愛の物語は容易く妥当されてしまう物に成り下がった。それは非情でも非道なのでもない。冷静な社会認知である。怪物の登場で世界は表と裏が引っ繰り返ったのだ。非日常世界の論理で動いている軍部と、日常世界の論理を非日常世界に持ち込もうとするカンドゥたちの衝突は避けようのない自明の理である。

 当局に身柄を拘束されたカンドゥが脱走する場面。外へ出ると、そこには河原でバーベキューする人々の姿が。この物語の冒頭。カンドゥの家は漢江でビールや肴を売る売店だったことが示されている。カンドゥは河原に置かれたバーベキューセットを――非日常世界に飲み込まれた陳腐な日常を蹴り飛ばして逃げる。

 非日常性と日常性の乖離はラストシーンで頂点を迎える。

 家族の力で怪物を倒したカンドゥだったが娘ヒョンソは死んでしまう。韓国では公開当初から観客の意見が真っ二つに分かれ、死んでる・死んでない論争が起きた。制作陣から公式に「ヒョンソは死んだ」とコメント出ても続いたらしい。不幸の原因(怪物)を取り除けば世界は元通りの姿を取り戻す、そんな甘っちょろい幻想を監督は打ち砕く。ここまで物語的なカタルシスを踏み外し続けてきた作品のラストとしては実に相応しい。が、やはり賛否両論のようだ。

 ヒョンソを失ったカンドゥは、ヒョンソと一緒に排水溝から怪物に連れ出されてきた少年を新たに家族として迎え入れ、再び売店を営み暮らす。非日常の世界で怪物を討ち取った経験は何も活かされない。物語の冒頭へ戻っただけのことだ。全編に亘って続けてきたカタルシスの踏み外し、日常と非日常それぞれを支配する論理の乖離は、非日常の物語で怪物を倒す戦士として成長したかに見えたカンドゥが、実は何も成長しないまま日常の物語へ戻ってしまったことで物語的な結実を見る。

 非日常の世界には非日常の、日常には日常の論理があり、一方の世界で功成り名を遂げても他方の世界には必ずしも持ち込まれない。戦場で華々しい活躍をした勇者でも平和な世界に戻れば不気味で厄介な人間としか見られないのが現実である。
タクシードライバー コレクターズ・エディション [DVD]タクシードライバー コレクターズ・エディション [DVD]
(2008/05/14)
ジョディ・フォスターシビル・シェパード

商品詳細を見る

ランボー [Blu-ray]ランボー [Blu-ray]
(2009/02/04)
シルヴェスター・スタローンリチャード・クレンナ

商品詳細を見る

 歴史や社会といった存在が加える見えない圧力の前で人間個人の存在は小さく無力である。非日常世界の英雄も日常世界には経験値を持ち込めない。ならば物語の最後。小市民たるカンドゥは元の場所へ戻ってくるしかないではないか。

 何処へも行けない私、日常へ戻らざるを得ない私の物語は、同じ日常へ回帰するでも昨今の日本に溢れる“社会が喪失して信用ならざる物になっているのだから、日常を至高の物として戯れ楽しむのは仕方ない”とする物語とは一線を画する。

『グエムル-漢江の怪物』は初期セカイ系のような「社会が信用できないから社会的自己実現で成長するのを拒否する」でも、00年代に入ってからのセカイ系に見られる「登場人物の知覚が及ぶ範囲内、小状況で擬似的な成長物語を展開することにより、それが大状況の物語まで解決できたかに見せる」物語にも属さない。

『グエムル-漢江の怪物』で社会は強烈に効いている。その影響を登場人物の一人一人が察している。だから無力な私を自覚し、何処へも行けなかった私として日常へ戻らざるを得なかったのだ。

 ここまで長々と書いてきたわけだけど、読んでくれた人が気になるのは「結局これ面白いの?」だと思う。まず言っておかなければならないのは、これ怪獣映画ではなく、怪物映画。ホラーパニックを期待すると違う。怪物の見せ場は最初に登場して市民を次々になぎ倒していくシーンだけで、後は偶に出てきて人をさらうか走ってるか。B級SFホラーっぽい物を期待すると違う。

 カタルシスの踏み外し、脱力の演出は怪物を小道具にしたブラックジョークとしても見られる。鑑賞直後は何とも書くのが難しい怪作。しかし時間に余裕あるなら見ておくと良い。日本と韓国の社会的な背景から来るメンタリティの違いが感じられる。

 怪物のヴィジュアルが日本の某アニメに出てくる奴にそっくりだと言って見もせずに叩いてる人いるけど、まず見てから作品単位で評価したらいいじゃん。
(´-`).。oO(似てるのは否定しないけどな)

グエムル-漢江の怪物-(スマイルBEST) [DVD]グエムル-漢江の怪物-(スマイルBEST) [DVD]
(2008/02/08)
ソン・ガンホピョン・ヒョボン

商品詳細を見る

*小状況の擬似的な成長物語とは以前『少年少女漂流記』(作:乙一 絵:古屋兎丸)を別館でレビューしたときに出した言葉で、自分としては登場人物の知覚が及ぶ範囲内、彼の想像力が届く場所までを言い、それより遠く無数の小状況を内包する物は大状況と呼んで区別した。
 かつてセカイ系は主人公が成長しない物語、社会的自己実現を拒む物語と言われたが、近年の事情はそれら単純な区分で表せなくなっている。
 最新のセカイ系は登場人物の成長を含む。しかし、この成長物語は依然として社会的な自己実現とは無縁であるし、ずいぶんと都合主義的である。ダメな自分を自覚し反省のポーズを取った後はストレスフリーで成長してしまえる。そして本来なら大状況の物語内部に位置するはずの存在が、結末で逆に大状況をスッポリ包み込み、より広い世界の問題を覆い隠して万事解決したかのようにエンドマーク打ってしまう。
 これが最新のセカイ系。
Twitterでつぶやく


コメント

    コメントの投稿

    (コメント編集・削除に必要)
    (管理者にだけ表示を許可する)

    トラックバック

    この記事のトラックバックURL
    http://kuzira8.blog114.fc2.com/tb.php/948-c16d11cb
    この記事へのトラックバック