腰痛で1回休み

2009年10月01日 02:25

 腰が……よっぽどヤバイ顔してたのか合う人、合う人に「大丈夫? 今にも倒れそうだよ」言われました。

 ほんとは内在批評論と外在批評論について書こうと思ったけど座ってるのもつらいんで手短に行きます。かなり端折るので詳しく知りたい方は参考文献を当たってください。簡単にまとめると批評には大きく分けて内在批評と外在批評の二種類あるよ。内在批評というのは大昔からある批評論で、文学を論ずるにはテクストにどっぷり浸かって味わうべし。原文密着主義。日本で印象批評と言えば小林秀雄。小谷野敦は読んではいけないブックリストで「小林秀雄の著作全部 日本の批評を非論理的にした張本人」と名指しで糾弾してるんだけど、そこら辺の判断は各人がすればよろしいと思う。

 外在批評やってる人が内在批評を批判する場合どこを攻めるかって言うと、内在批評は論者が持ってる常識に100%寄りかかった批評論なんだよね。だけど一人の人間が持てる常識なんてタカが知れてるわけで。それでもって膨大な量の作品を論じることの難しさ。欺瞞性。それ最終的には論者の好き嫌いになっちゃうんじゃないの?ってこと。

 18世紀イギリスで誕生した近代的文芸誌に『タトラー』とか『スペクテイター』とかっていうのがあって、ここではまだ印象批評が行われていた。

 もっと時代が下ると印象批評に反旗を翻そうとする人々が現れる。ケンブリッジ大学でリーヴィスって人が始めた。これは彼が主催していた季刊誌の名前を取って「スクルーティニー派」とも言われる。主に中産階級の出身者で構成されたスクルーティニー派は従来の印象批評を打ち砕け、上流階級の閉塞的で馬鹿な批評にはウンザリだっていうんで自分たちで新しい批評論を打ち立てようとした。それまで文学とは芸術作品であり、批評する人間はテクストを吟味することが重要。バラバラに分解して分析するなどもってのほかであると言われていたことをやった。批評に歴史、心理学、文化人類学などを持ち込み、外からの客観的な視点で個人的な好悪の感情に関係なく、こちらは人間という物がよく書けているけど他方の作品には描写が不足している、とか始めようとしたの。

 世間知らずの坊っちゃんたちが反体制、反権力みたいなことやり出すと、行き着く先は決まって過激な運動なんだよね。リーヴィスも段々に政治批判へ傾倒し始めるし。そのうちスクルーティニー派は反資本主義の学生運動っぽくなっちゃう。

 スクルーティニーの矛盾に関してテリー・イーグルトン『批評の機能―ポストモダンの地平』から引用すると、

 ブルジョワ公共圏再興の試みは、最初から絵に描いた餅とならざるを得なかった。なにしろ政治社会は階級対立にあえぎ、文化は商品に征圧され、経済も、公共圏を可能にしたかつての自由主義的資本制から国家主義的・独占的段階に移行しているのだから、ところが『スクール―ティニー』の場合、公共圏の復活を信じて疑わないばかりか、致命的な思い違いをしていた。というのも、その運動は公共圏を、あろうことか大学という、批評を公共圏から切り離した当の制度の内部から復興しようともくろんでいたからだ。批評は大学に閉じこもってばかりいずに、商品広告うずまく世界に、大衆文化のけばけばしい世界に立ち向かわねばならない。しかし、そうした世界に批評が持ち込むのは、大学内部で育まれた本質的に「文学的な」価値観であるため、批評はいつも尻尾を巻いてすごすごと引き下がるはめになり、それにこりて、空想の中ではいざ知らず、現実には二度と大学から外に出ようとはしなかった。そこで『スクルーティニー』は文学規範を攻撃の的にするというわけだろう。だが、そのくせ「文学」を文学たらしめている諸制度に『スクルーティニー』は手を付けない。いやそればかりか、大学その物を「不可欠な中心」として温存した。大学制度に対するこの中途半端な姿勢の源には、いまひとつの神話があった。つまり理想的な大学があるという信念だ。

(略)

 「英文学」を社会批評の出発基地にするのではなく、社会批評の代用として大学の中に制度化することで、『スクルーティニー』は致命的な盲点を抱え込むことになったのだ。孵化を待つ公共圏と見えた物は、その実、真の公共圏消失に対する自己防衛的反応の結果できあがった避難場所に他ならない。なるほど『スクルーティニー』は、批評家、教育者、その他の知識人相互の新しい開かれた対話を呼びかけ、実際、そうした対話を実現することにかなり成功した。しかし、その開かれた言説領域は、十八世紀の英国におけるコーヒー・ハウス共同体とは異なり、社会全体の政治構造に根を張ることは出来なかった。


 同じくテリー・イーグルトンが書いた『文学とは何か―現代批評理論への招待』を底本に筒井康隆は『文学部唯野教授』で架空の大学教授、唯野の講義の体で以下のように説明する。

スクルーティニー一派が何でそんなとこまで舞い上がったかというと親玉のリーヴィスが、なぜ文学を読むのかという問いに対して、これ以上はないという説得力ある理由を主張したからなの。つまり早く言や、文学を読むといい人間になれるってやつですよ。これ、おかしいんだよね。おれの体験じゃ、文学とまったく関係ない人の方がみんな善良ですよ。それにさ、これはこの時代の格調高い英文学に対してならある程度言えたかも知れないけど、現代の文学に対しては言えない訳よ。いや。文学を読む人間のこと考えたら、この時代にだってこういうこと言えなかったはずです。この少し後でナチのユダヤ人虐殺があるんだけど、虐殺を指揮したナチの将校でゲーテ読んでるやつ、ざらにいたんだよね。さらに作品との関連で言えば、現代では太宰読んで自殺するやつ、安吾読んで堕落するやつ、檀一雄の『火宅の人』読んで家族放り出すやつ、サド読んでマゾになるやつ、いっぱいいてさ、そういう悪い影響及ぼす作家の作品が逆に傑作としてもてはやされたりしてる物ね。でも戦後一番多かったのはやっぱり『チャタレイ夫人の恋人』読んで不倫やったやつね。ううん。エマニエルじゃなくてチャタレイ。D・H・ロレンスって作家の。ところがおかしなことにロレンスは、スクルーティニー一派が一流の作家と認めてるうちの一人なんだよね。ロレンスは炭鉱夫の息子で、だから連中としてはロレンスのその階級意識、それにロレンスのテーマである、調和した創造的な『生(ライフ)』とかを支持したわけ。この『生』という言葉は以後、スクルーティニー一派が掲げる言葉として選ばれました。批評によって『生』を見いだすのだって訳。でもさあ、こういうのはやっぱり読者に対して『小説の、ここにだけ注意を向けなさい』と言って指示したり限定したりする物であってさ、おまけにその『生』がどういうものか、定義がハッキリ出来てなかったの。あまりハッキリさせると逆にうるさく突っ込まれるから、ぼやけさせとく必要があったわけ。だからあれですな。一種の宗教ですなこれは。あっ。でもね、文学を宗教とか、如何に生きるかといった人生の教科書みたいに思ってる人、今でもずいぶん多いんですよ。神聖視するのは勝手だけど、宗教とごっちゃにしちゃいけない。


 スクルーティニーがアメリカに伝わると、よりマニュアル化され新批評(ニュー・クリティシズム)と呼ばれる物になります。再び唯野教授の講義より。

 ニュークリの親玉で名付け親は、ジョン・クロウ・ランサムっていう批評家で、この人はアメリカ南部の伝統主義者でした。1930年代のことだけど、アメリカの南部は、北部に比べて経済的に立ち後れてたの。もちろん急激な産業化の波に洗われてたんだけど、このランサムは、だけどやっぱり南部には北部と違って、その社会の中に芸術性があるって主張してたの。こうした南部の古い社会の美的生活と、イギリス渡来の、リーヴィスやリチャーズのやってきた、作品をバラバラにして分析する実践批評ってのが結びついてニュークリになったってわけ。北部の科学的合理主義に勝てるのは詩だけだ、詩こそは世界をあるがままに受け入れる姿勢を、われわれに教えてくれるのだってわけ。もう、分かるでしょ。今度は詩ってものが宗教になっちまった。リチャーズが分析したのも主に詩だったけど、このニュークリが分析したのはもう、詩ばっかりでさあ。スクルーティニー一派は作品をモノにしちゃったけど、ニュークリは詩をご神体にしちまった。ここで誰か、気がついた人いませんかあ。そうですね。批評ってやつは、批評しやすいものを選んで批評するんですよね。前回話したエリオットって人は、自分が詩人だもんだから、自分の詩を持ち上げるのに都合の良い物を選んで批評したんだけど、このニュークリは、厳密な客観的な方法だけで分析するためのテキストに詩を選んでさあ、解剖のテクニックがちがちに作り上げちまったの。

(略)

 これ科学的合理主義に勝とうとして、自分たちのやってることといったら、その科学的合理主義のパロディなんですよ。だもんだから簡単にアカデミズムの体制に組み込まれちゃった。つまりニュークリは、詩を作者からも読者からも解き放つなどと言って現実の社会からも歴史からも切り離しちまった。そのくせランサムは『詩は国民の個性を犠牲にせずに目的を達成する民主主義国家みたいなもんだ』なんて言ってるんだよね。階層秩序がっちりの支配的な全体構造に荷担しときながらさあ。


 テリー・イーグルトンは現代英国を代表する批評家だが、現在のポストモダンを知の引きこもりと捉え、その姿勢には否定的である。一方でポストモダン自体を否定してるわけではないのも付け加えておきたい。

批評の機能―ポストモダンの地平』は18世紀から現在までのイギリス批評界の歴史をコンパクトにまとめた本と見せかけて、実は行き詰まりを見せるポストモダンへの挑発的な問いかけ、ポストモダンの今後を研究する一冊。

 ポモ系サブカル論者の代表格なのがオタク第二世代の東浩紀。この人は自分でも言ってたと思うけど趣味に走りやすい人で、自分の好きな物ばかり批評してるのね。上で言うところの「批評ってやつは、批評しやすいものを選んで批評する」ってことになるんだろうけど。あずまんの場合は自覚的だから良いんだけど、彼の登場以後ネット上に増えた劣化東浩紀たちは無自覚なのが多いよね。そこ突いて登場したのがオタク第三世代の宇野常寛。あずまんや彼のフォロワーたちが見ているジャンルには偏りがあると言って、批評対象を広げていった。んで、やっぱりこれも登場するんだな劣化宇野常寛。この人たちの合い言葉は「セカイ系は死んだ」ね。こんなのはさっさと片付けて次に行くぞ。もう後ろは振り返るな。あと、大きな物語の時代は来ない、80年代以前のモデルが復活すると思うなってのも言うよね。

 俺も年代的に第三世代だけど、どうしても彼らの言ってることは馴染めないんだな。部分的には頷けるんだけど。

 話がずれた。まあ新批評というのは問題あったんだけど、とにもかくにも作品を読み解くのにテクストと付き合ってばかりじゃダメだ、テクストから離れた視点も重要なんだってことを始めた初期の運動として覚えておいて損はないと思う。外在批評は現象学、記号論、構造主義、ポスト構造主義、精神分析批評と時代と共に新しいのが打ち出されて来た。

 結局のところ内在批評と外在批評の違いって何なんだと言えば、外在批評とは従来の「作品の説明と鑑賞でけりがついてしまう批評」に対し、「その存在の社会的意義を決定しなければやまぬ」批評のこと。


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コメント

  1. ぶぎょう | URL | -

    大丈夫ですか?クジラの腰がどの辺りか知りませんけど
    お大事になさってください。 文学理論とか知りませんのでコメントは一回休みです 
    あわてない あわてない ひとやすみ ひとやすみ。

  2. ホムラ | URL | WzzJX4NY

    腰痛がたいへんなのはわかった。
    俺が、今、インドメタ神を召喚してやる!

    …あ、そんな軽いレベルじゃなさそうですね。
    ごめんなさい、お大事に。

  3. | URL | Xysd5fB2

    Re:おぶぎょうさま

    まだ腰を曲げた状態から急激に体を起こすとピリッときますが、だいたいは治ってきました。
    股関節と腰の筋肉が疲労か何なのか硬くなっていたところに、更に負担を掛けたのが痛めた原因みたいです。

  4. | URL | Xysd5fB2

    Re:ホムラさん

    > 腰痛がたいへんなのはわかった。
    > 俺が、今、インドメタ神を召喚してやる!
    インドの形而上学の神?
    なんだか凄そうな神様ですね。
    ( ̄□ ̄;)ハッ!
    それを召還できるホムラさんは神の上の神ということに。

  5. つる | URL | -

    インドメタシン……はっ!!!
    湿布薬ね!ホムラさん、うまい!

    内在批評と外在批評か。難しいんだな。文学って。
    文学全体の批評より、個々の作品に対しての批評が、作品の出来を上回るようなときや、作者が意図しないところまで論じてるときなんかが、批評って面白いなと思います。
    鯨さんが云わんとしていることとズレたらごめん。

  6. | URL | Xysd5fB2

    Re:つるさん

    文学に限らずメディア全般に当てはまる批評論です。文学しか論じられない文学論なんてのは歪で不格好な出来損ないでしかありません。書いた人間も読む人間も等しく“場”を共有しているのに、一切それらに触れず作品と作者の生い立ちの説明だけで読解した、と、してしまうことの限界から来ています。

    村上春樹の小説も、週刊少年ジャンプの漫画も、そこでは同じテーブルで等しく論じられるテクストとして分解されます。

    > 文学全体の批評より、個々の作品に対しての批評が、作品の出来を上回るようなときや、作者が意図しないところまで論じてるときなんかが、批評って面白いなと思います。

     作者の意図を超えて読者が意味を生み出す、作品が作者の専有物ではなくなり、自分の生み出した物に作者が神として君臨できなくなった現代の現象を、ロラン・バルトは作者の死と呼んでいます。
     基になっているのは言語学者ソシュールの提唱した記号論です。これを説明すると長くなるので省きますが、ソシュールの登場によって作者とは作品を生み出す人間ではなく、単にそれを書いた者。作品は彼の人格によって生み出されたのではなく、言表行為という空虚な過程の産物であり、言表行為は人格を必要とせず完全に満たされる。言表行為が必要とするのは人格ではなく主体。主体とはそれを規定する言表行為の外では空虚であるが、言語活動を維持するにはそれで十分である、とされました。
     なんか分かりづらいですね。

     とにかく上記のような考え方により作品とは作者が生み出した物であるから、当然そこには書いた人が意図する“正しい答え”が存在するはずだ、という読み方は崩壊してしまったんです。作品の世界から神(作者)を相対化することで殺してしまったんですから。そこでは「書き手」など誰でも良くて、書いた人の名前などAさんでもBさんでもいい。作者―作品の考えが成立しなくなり、作品はテクストと呼ばれテクスト論が生まれました。
     それでは神が死んだ世界で我々(読者)は途方に暮れなければならないのか。近代的自我と共に誕生した「作者」の概念が死ぬと、代わって「読者」が強力な権力を持ち表に出てきました。
     近代の読書が作品を生み出した神(作者)の示す唯一無二の正答を見出すため、作品を解読するのが主だったのに対し、現代は個々人が勝手に自分の読みたいように読み、論じたいように論じる時代です。そこでは「書き手」の意図しない、そんなことは書いてないと言いたくなるようなことまで作品の主題であるかのように論じられ、ますます作者が作品に及ぼす影響力は小さな物となっています。

     作者の意図を読み解く従順な信徒からテクストの集積地へと変貌した読者は自らエクリチュール(書くこと)を組み立て、半ば恣意的に意味を生み出します。恣意的とは自分に都合良く、最も面白いと思える形を言います。

     壁に丸いシミが三つあったら人間の顔だと認識して大騒ぎする人いますね。あんな風に人間というのは何らかの意味を汲み取りながら生きている生き物です。それを作品に対しても行おうとするのが現代の読者です。

     そんな感じなので未だに国語のテストに出てくる「以下の文章を読んで作者の意図に最も近いと思われる答えを塗りつぶしなさい」は、多くの試験問題と同じく"点数を取るためには必要だが実社会では何の力にもならない”物として切り捨てられ早30数年。しかし最近テクスト論の功罪が語られるようになり、この分野は再び見直されようとしています。

  7. 黒色大聖堂管理人 | URL | -

    ふむふむ( ..)φメモメモ

    「神は死んだ」時代にあえて、書き手はどんな意地を
    見せるのかが見たいってのは有りますね。

    権威の回復をはかることで、何かが生まれるのかどうか。

  8. | URL | Xysd5fB2

    Re:黒色大聖堂管理人さん

    神の存在すら相対化してしまう時代に、権威を失った神は如何にして再び居場所を取り戻すのか。

    しかし人は本を読むとき、未だ無意識に読解を試み、神の声を聞こうとしているから、本当に神は死んだのかという疑問もあります。

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