時間が問題を解決することもあるだろう。だが真の問題は時間が運んでくるのだ

2009年01月09日 00:56

 光速の豚ことイングヴェイ・マルムスティーンのお姿を拝見するたび、時間とコレステロールの残酷さを思い知らされる。

 まだ痩せてたころのインギー伯爵。


 ちょっと太り始めたころのインギー伯爵。


 みんながよく知るインギー伯爵。

 それにしても器用に動く前足だな。


 最近拙者の周りで「小説の新人賞に応募します!」と宣言するブロガーさんが多いでござるよ。一人や二人じゃなく。『バキ』の徳川ご老公なら「シンクロニシティじゃよ」と言い出しますね。
 年も変わったし目標を立てるにちょうどいい時期なんでしょうか?
 一回や二回落ちても続けるでござるよ。たまに「一回送ってみて駄目なら才能がなかったんだと諦めます」と言う人いるけど、初めて書いた物が世に認められるなんて才能より運に左右されるところが大きいよ。そもそも多くの人間が「上手く書きたいなら最良の練習方法は数を書くことだ」と口を揃えるのに、一回だけでやめたら何にもならんだろ。

 最近は定年後の趣味かオーバー60世代も多く送ってくるそうです。昔の60と違って最近の60は元気あるね。
 ただ、これは若い人にも言えることだけど、自分の願望をストレートに書きすぎる作品が多いんだとか。
 たとえばオタが妄想全開で「何にも苦労せず可愛い女の子が自分の許に転がり込んできて、なんだかんだ言いながらも俺のことを好きになってくれる小説」を書いたら、ウワァ……ってなりますよね。それと同レベルな話を老人が投稿してくるんだとか。
 町で偶然出会った女子高生とお近づきになってやっちゃう話とか、困ってるところを助けてもらった若くて格好いい男性に好きですと言われてしまう話だとか。
 毒蝮三太夫風に言うと「いい歳したジジイとババアがオ○ニー公開して恥ずかしくないの?」と訊きたくなるような原稿ですね。ひとつや二つじゃなく結構な数。
 作者は主人公の最良の友であると同時に最大の敵でなければならないんよ。救う振りして後ろから穴に蹴り落とすくらいじゃないと。主人公有利なイベントだけ集めて許されるのは抜きゲーくらいだろ。あれは変にシナリオ方面に力入れると「余計なことすんな!」って怒られるから。

 自己の存在と登場人物を切り離して考えられないのは未熟な自我がウンタラカンタラ。
 自分を投影するでも客観的な視点を加えて物語の登場人物として整形しないと。それができない人間は自分を主人公にすると単なる自分語り、自分史になってしまい読む側に大変暑苦しい思いをさせてしまう危険性がありますよ。そういうのやりたいならノンフィクションとして書けばいいんだから。フィクションにする意味ないやね。

 回避する手っ取り早い方法は主人公を自分の真逆にしてしまう。男なら女、女なら男。だけどタチが悪いことに自分ってのは離れがたいんだ。知らないことを書くのは難しいし怖いから。ついつい自分が経験したこと中心にしてしまう。それが一割か二割くらいなら良いけど大半を占めるようになったら、これはキャラクターを描いてるのか自分のこと書いてるのか分からんよね。

 他にはアマチュアならではの甘えも読み手を閉口させる。読者は最後まで読んでくれるのが当然って考え。馬鹿言っちゃいけんよ。どうして詰まらない話に最後まで付き合う義務を負わせられなきゃなんねーんだ。読みたきゃ読むし、読みたくなきゃ途中でも放り投げる。我が儘で自分勝手な存在なんだよ読者は。自分だって思い当たる節あるだろうに他人には行儀良く最後まで付き合うのを求めるんだから――。
 ハリウッド映画の常套句「驚愕の結末!」が流行りすぎて勘違いしてる人が多いよね。物語の面白さはすべてラストで決まると思ってんの。そりゃ驚かせてくれるならそれに越したことはないが、そこまで連れて行けなきゃなんの意味もないだろ。
 中盤が死ぬほど詰まらないのに最後だけ頑張っても帳じり合わせ以上にはならんよ。大半は途中で閉じられて陽の目をみることもないだろうし。そこで究極の甘ったれは「最後まで読め!」と読者に要求してしまうんだ。最後まで読んでないなら面白いも詰まらないも言うなって命令するの。もう続きを読みたくない、読む価値がないと判断したから閉じた。これだけで悟るべきなのに。

 売れてる作家の真似を無闇にしたがる人は多い。それ自体は責められることじゃないけど、やって良い真似と、そうじゃない真似ってのが存在します。知名度が高くキッチンのメモ書きにすら値段がつく作家――いわゆるブランド作家は読者との間に信頼関係が成り立ってるんです。序盤・中盤ちょっと退屈でも最後は盛り上げて値段分は読ませてくれるに違いない。だからタルい書き方しても読者は逃げないんです。何者でもない人間が真似して良い書き方ではないですよね。

 上でタルいと表現した書き方を一般に「撫で型」と言います。ゆっくり物語に入って、じわじわ盛り上げる方法ですね。反対に序盤からバーンと派手にやらかすのを「張り手型」と言います。多くの「初めて小説を書く人のための本」みたいなのには、序盤はインパクトのあるシーンからとか、主人公が危機的状況に陥ってる場面からとかの言い回しで、張り手型を勧められるはずです。読者との信頼関係0から始めるなら当然ですね。
 会話文から始めるのも張り手型の一種です。現代では会話もアクションの一部と捉えられているからです。たまに「会話文から始まるなんて品がない。格調高い書き方とは言えんよ」と難癖つける人もいますが、そういう場合は「世界名作文学に数えられる作品でも会話から始まるのは存在しますが、それについて貴方個人の意見を聞かせて下さい」と返せば、黙るか面白い議論が始まるかのどっちかです。俺は面倒臭いから相手しないけど。
 張り手型にも弱点というか注意点あるんだけどそれを書く前に、さっき飲んだ卵酒が回ってきたようです。ごめんよパトラッシュ。僕とっても眠いんだ。羽の生えた全裸の子供は見えないけど寝るね。
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