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梅雨空のグズつく日に僕は病院を訪れた。酷い頭痛でこの何日間かまともに眠られなかったのだ。元から頭痛持ちだった僕は初めさほど気にしてなかったのだが、症状が長引くにつれ周囲から重大な病気かもしれない、頭は軽く見られないと脅され、とうとう専門医の受診を決断したのだった。しかし、ここに至っても僕は未だに自分が大それた病を抱え、明日をも知れぬ命だなどとは思ってもなかった。もちろん世の中には自覚症状がないまま健康診断でガンと診断され余命宣告を受けた人がいるのも知っている。だが自分に限っては絶対にないと妙な自信を持っていた。 総合病院の受付で保険証を提示し病状を説明した。女性はカウンターの中から地図を取り出し脳神経科の場所を教えてくれた。保険証はそちらの受付に提出してください、と言って僕のほうに返して寄越す。 僕は女性の説明を頭の中で繰り返しながら廊下を進んだ。院内は平日の昼間だというのに人が多かった。大半は老人だ。喫茶店やファミレスより病院に人が集まる時代――超高齢化社会の足音が聞こえた気がする。 脳神経科の受付に保険証を提示してから僕はしばらく待たされた。しばらくというのが曖昧模糊としてるなら二時間と言い直そう。時計の長針が二周する間、僕は病院の待合室で待たされ続け、いったい自分はこんな所で何をしているんだろう、これでどこにも異常がなかったら単なる間抜けではないかと自問するのだった。 ようやく看護師に名前を呼ばれ診察室に入ると(今は看護婦と言わないのだそうだ。なんでも白人の真似をすればいいというものじゃないだろう。看護婦は看護婦ではないか)、巨体を小さな回転イスに乗せた丸メガネの医師と目が合った。座った状態なので正確には分からないが身長二メートル近くあるかもしれない。彼の身体には不似合いに狭い診察室で僕たちは向かい合って座った。 「本日は頭痛がするということですね」 僕は手短に容体を説明した。前から頭痛持ちだったが特にこの何日間かは酷く夜も眠られないこと。風邪をひいたり、頭をどこかにぶつけたりした覚えはなく、むしろ頭痛が続くのさえ覗けば体調はすこぶる良好だと言った。医師はカルテに一通り書き終えると、ボールペンの尻で自分の額をノックしながら物思いに耽った。そして出し抜けに「MRIを撮りましょう」と言った。 「MRIですか?」 「MRIです。あなたの頭を輪切りにして中の様子を見る機械ですね。と言っても本当に切るのではなく、そういう風に見える画像診断機の意味です」 僕は、はあと気のない返事をしながら、内心では大事になったぞと心配していた。 「それは今すぐ受けるものですか」 「今すぐです。ことは一刻を争うかもしれませんぞ」 医師の真剣な口調にドキリとした。 「先生。僕の病名はなんですか? まさか脳腫瘍とか……」 医師は相好を崩さないまま言った。 「今の段階では分かりません。それを調べるために機械に入っていただくのです」ただ、と短く付け加える。「私の考えてるとおりだとしたら、自体はそれより悪いです」 こうして僕は心の準備も出来ぬままMRI検査室へ送られた。 MRIは火葬場の窯のような機械で、そこに一時間近くも寝かされていると骨だけになった自分の姿がリアルに思い浮かび、ここから出してくれと叫びたくなった。 MRI撮影を終え憔悴しきった僕は再び待合室へ戻った。今度は二十分ほどで呼ばれ再び診察室へ入る。医師はモノクロの写真を前に真剣な表情を見せていた。それがMRI撮影した自分の脳みそであることは僕にも分かった。 「これを見てください」 医師は写真の一枚を指差した。 「ここに影が見えるでしょう。ここにも。ほら、ここにも」 写真の中で白く浮き上がった僕の脳みそには、ディズニー映画に出て来るチーズのように無数の穴が開き、素人目にも正常でないことが分かった。 「先生これはいったいなんですか。僕はどうなってしまったんでしょう」 鼻の頭までずり落ちた丸メガネを押し上げながら医師はこちらに向き直った。 「ずばり蟲食いですな」 この人は何を言ってるんだろう。しばし言葉を失ってしまった。 「すみません。よく聞こえなかったようです。もう一度お願いできますか」 「あなたの脳は蟲に食われています。失礼ですが近ごろ頭を使われましたか?」 そう言われてみると最近は流れ作業的に雑事をこなすことが多く、何かを専心して考えることはしてなかったような気がする。 「この症例は非常に珍しくまだ学会でも報告が少ないのです。専門医でも不勉強な者は知りません。まして一般の方が耳にする機会は皆無と言って良いでしょう」 唇がカサカサに乾いていくのが分かった。いや。唇だけではなく咽喉も水分を失い粘膜同士が張り付いている。僕は数少ない唾液を舌に集め唇を一舐めした。 「つまり先生は僕が頭を使ってなかったのが原因で脳を蟲に食われたと、そう言うんですね」 医師は頷いた。 「そんな馬鹿な。僕の脳みそは冠婚葬祭用のドレスじゃないんですよ。蟲に食われて穴が開くなんて」 「お気持ちお察しします。しかし事実は事実として受け入れていただかないと、こちらもこの先の話が出来ません」 「まだ何かあるんですか」 聞きたくない。何か知らないが悪いことに決まっている。今すぐここを飛び出して別な病院へ行くんだ。この医者はまともじゃないぞ。しかし脳の命令を身体が無視した。僕の四肢は微動だにせず持ち主をイスに縛り付けた。 「このまま蟲を放っておけば脳は食い荒らされ、やがて全身に進攻を始めるでしょう。そうなる前に治療が必要です」 「薬物療法ですか?」 「外科手術です。蟲ごと食い荒らされた脳を取り除きます」 「ちょっと待ってください! 脳を取り除くと仰いましたよね。僕の脳を!」 それが何か問題でも、と言う医師の態度は優雅でティーカップの幻が見えそうだった。 「問題大ありですよ先生。確か昔、脳の一部を切除する手術が問題になりましたよね。あれはなんと言ったか。そうだアナトミー!」 「ロボトミーです。どうやら重症のようですな」 「五月蝿い!! とにかく僕はそんな危険な手術絶対に受けませんからね」 今度という今度は帰ろう。決心して立ち上がりかけた僕の両肩に医師の大きな手が乗せられた。 「いいですかな、よく聞いてください」口調は穏やかだが手に込められた力は三角筋を物ともせず骨に圧力を加えた。「あなたに与えられた選択肢は二つしかありません。蟲が全身に転移し内側から内臓が食い散らかされるのを座して待つか、手術を受けるか。私は医師として助かる患者をむざむざ死なせるような真似はしたくありません。どうか手術を受けてくれませんか」 「しかし、それは……」 それは、と医師が大きな顔を近づけて来る。間近で見ると余計に大きさが際立つ。吐く息には微かなハッカのにおいが混じっていた。 「あまりにも危険で乱暴じゃないですか。とにかく切ってしまえなんて。そんなことして大丈夫なんですか」 「大丈夫ですよ。昔の歌手が『脳髄は物を思うに物を思うにはあらず』と歌っています」 「それは歌の文句ですよね」 「大丈夫ですって。今までだって大して使ってなかったんですから。使わないということは必要ないと同義です」 とにかく、と医師は肩に爪を立ててきた。 「手術同意書にサインしてください。それしかあなたに残された道はないのです」 こうして僕は半ば脅され手術を受けることに同意した。 「執刀は私の弟が担当します。兄の私が言うのもなんですが腕のいい外科医ですから、安心して任せてください」 大慌てで入院の準備を済ませ三時間後には手術室へ入れられた。執刀医はなるほど、あの医師を少し若くして二回りほどミニチュアにしたような人物だった。 「手術中は全身麻酔をかけます。次に目を覚ましたときは健康体ですよ」 そこで僕の記憶は一旦途切れる。 次に目を覚ましたのは病院のベッドだった。まだ麻酔が残っているらしく半覚醒状態でぼんやりとした。 僕の病室には連日のように若い医師が交代で訪れた。おそらく珍しい症例を実地で観察させるため送り込んで来たのだろう。僕は患者兼生きた標本だった。自分が更にとんでもないものへ変身させられたと知ったのは、手術から一週間ほど経った日のことである。それまで具体的に自分がどんな手術を受けたのか僕は知らなかった。全てがなし崩し的に運び気づいたら病院のベッドだったのだ。 その日、経過を見に来た医師に僕は思い切って尋ねた。 「僕の脳はどうなったんでしょう。自分では前と少しも変わってないように感じるのですが」 頭の包帯を取って傷口の具合を確かめていた執刀医は手を止め、僕の顔を覗き込んだ。 「うちには歳を取った祖母が同居してましてね。この人がいろいろと面白い言い回しを使うんです。兄はなんでもかんでも十把一絡げに考える所があるので、お前は味噌も糞も一緒な奴だとよく言われています。――傷の治りは順調ですね」 執刀医は看護師に包帯を巻き直すよう指示した。 「それは面白いお祖母様ですね。しかし僕が知りたいのは」 「祖母が好んで使う言い回しに『使わない頭なら糠みそでも詰めとけ』というのがあります」 彼は口の端を大きく吊り上げて笑った。そのまま後頭部まで裂けて咽喉の奥から地球外生命体を出しそうな笑いだった。 「そのとおりにしてみました。どうです気分は」 僕は自分の頭に手をやった。看護師が巻き直してくれたばかりの新しい包帯の感触、剃り上げられた髪の毛がタワシのように刺さる。その奥。深い場所に収まっているのは脳みそではなく糠みそ……。 「なんでこんなことを」 「脳を切除した分、何か錘を詰めないとバランスが取れないんですよ。成人男性の脳は平均で1340グラムあります。それだけの重さが急に失くなったら違和感ありますよ」 「だからって糠みそを詰めることはないでしょう」 「いいじゃないですか。経過も順調なようですし」 それは確かにそのとおりだった。長年悩まされた頭痛と決別できたことで僕の気分は爽快、病院の一階から屋上までコサックダンスを踊りながら階段で往復出来そうだった。 「あっ。一緒にキュウリも入れたのでたまに糠を混ぜてあげてくださいね。首を大きくグリングリンと回してください」 僕は言われたとおりにしながら訊いた。 「これ取り出すとき一回ごとに手術しないといけませんよね」 「そうですね。そのうち何とかしましょう」 「お願いします」 話す間も僕は糠床を混ぜ続けた。グリングリングリングリングリングリングリングリングリングリングリングリングリングリングリングリングリングリン。 こうして僕は世界初の歩く糠床男となったのだ。初めは近づく人々が糠のにおいに顔を歪め傷ついたものだが、そんな彼らも僕で漬けたキュウリを食べさせると美味しいと喜んでくれた。いつしか自分の存在に自信を持てるようになっていった。更なる味の研究に糠漬け関連の本を貪り読み、今では食べる人の笑顔が最上の喜びと呼べるまでになった。 僕は希少さからマスコミの取材が殺到し、その謝礼だけで生活できるほどの有名人となった。お陰で仕事を辞め糠漬けに没頭出来た。如何にして美味しい糠漬けを作るかだけ考えてればいい。これに勝る幸せはない。 だって僕は糠床男なのだから。 ものかき 文芸ブログ作品発表 空想オハナシ団 自作小説あ・ぴーる 読切娯楽号 TRACKBACK
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話は違うけれど、日本人て頭痛持ちが多いんですってね。頭痛外来ってあるらしいです。偏頭痛のメカニズムはまだよく解明されてないらしいけど、辛いだろうな、頭痛。
糠って重いから頭を回したくらいじゃ混ざりませんよね。定期的に状態もチェックしないといけないし。だけどいいんです。だって頭が糠床の男が美味しい糠漬けを作るために一生懸命グリングリンしてる姿を想像してくださいよ。シュールで馬鹿でしょ。
これを笑ってもらえない人にはリアリティがないと言われるの承知で書きました。この話に限ってはリアリティなんてケツ拭く紙ほども価値を認めてません。