フジテレビで"開局50周年・探そう!ニッポン人の忘れもの"という番組をやっている。今日から3夜連続らしい。リビングでは家族が揃って見ているようだが、あまりにも面白くないので俺は早々に退散した。本来なら民放が3夜ぶち抜きゴールデンで流すような番組は、その時代を知るための資料として見ておきたいのだが、本当に面白くなく、かつ見ているとムカついてくるのでやめた。
俺はテレビでも何でも流行の物を見るときは二つの視点を持っている。ひとつは単純に楽しむため。もうひとつは、それを通して向こう側にいる人間――それを楽しんでいる人間の姿を見ることだ。余分な物を剥ぎ取りフラットな状態にしていくと、同じ時代に売れた作品には奇妙な共通点が見いだせる。同時代性と呼ぶが、この同時代性は何処から生まれるのか。先に売れた作品を踏襲して「こんな作品が売れているから、俺も真似しておこう」という人間が増えるため。なるほど確かに。では、どうして同じような作品を次から次に大衆は支持し続けるのか。まず大衆側に求める心がなければヒット作は生まれないし、それを真似したような作品が続けて支持されることもないはずだ。
ヒット作を読むのは、その時代に生きる人間を読むことになる。そのとき大衆が何を求めていたか。
"開局50周年・探そう!ニッポン人の忘れもの"にムカつきを感じながら、ある物を思い出した。BPO(放送倫理・番組向上機構)が2009年11月17日に発表した『最近のテレビ・バラエティー番組に関する意見』である。
http://www.bpo.gr.jp/kensyo/decision/001-010/007_variety.pdf
PDFファイルで45ページと短くはないが是非読むことをオススメしたい。皮肉なことに最近のバラエティ番組を見るよりは面白いのだ。
別段私たちは、バラエティーを目の仇になどにしてないし、ネタ明かしのような検証をするつもりもない。そもそも委員会がバラエティーを取り上げることにしたときも、あれこれ言おうとしたわけではない。
「あれ」と「これ」しか言わない。
私たちはそう決めていた。沢山のことを言って、結局、現場が窮屈になる。それこそ常日頃、委員会が最も心配していることだからである。
略
さて、では、「あれ」とは何か?
世の中には、人々を愉しませるため作られたバラエティーが、「嫌われる」瞬間というものがある。その現実くらいは知っておいて損はないのではないか、ということ。
「これ」とは何か?
バラエティーが意欲的にあらたな表現と笑いを作り出し、放送界現下の「コスト削減の嵐」と「コンプライアンス強化の波」をはね飛ばし、視聴者とのあいだにダイナミックな公共空間を作り出してほしい、という期待である。
『
テレビ作家たちの50年
』などを引用しながら話は続く。
大ヒットしたバラエティー番組、先ほど、私たちが懐かしく思い出したと言ったバラエティー番組も、そのいくつかは、「子供の教育上、いかがなものか」と、当時の世の親たちの眉をひそめさせ、「公序良俗に反する」としてやり玉に挙げられたものだった。そこには「社会通念」や「秩序」を笑い飛ばし、「権威」や「権力」をおちょくって、ときにはブチ壊すパワーがあった。
まさに変化、多様性、変わり種。当たり前のようにあった現実をひねったり、ゆがめたり、こねくりまわして、ちがう現実を作り出してしまうパワー。何でもありとは、そういうことである。
違法、非合法のことは論外としても、あとは常識と非常識、秩序と混沌、嘘と真実、美と醜、本物と偽物、既知と未知、その他とその他のすれすれのところで、バラエティーの制作者たちは知恵と悪知恵を絞り、七転八倒、悪戦苦闘し、顰蹙を買ったり、まぶしく見上げられながら番組を作ってきた。
略
これだけガンバってきたバラエティーだが、先の本の後半、というか最近の話になるにつれ、関係者の口調はだんだん愚痴っぽくなる。その気配が漂い始める。
曰く、バラエティーはあらゆることをやり尽くし、いまや何を見ても、既視感がつきまとう。
曰く、タレントとその予備軍は相変わらず少なくないが、突出したカリスマ的才能、ビッグな芸人が少なくなった。過去に大ヒットして、「お化け番組」と呼ばれたようなバラエティーは、制作者とカリスマ、テレビ局とスポンサーが一体となって作り上げてきたものだったが、いまそういう熱気が見あたらない。
曰く、放送界にコンプライアンスを矮小化した事なかれ主義、サラリーマン的保身がはびこって、ムチャなこともできなくなったし、破天荒なカリスマの存在も許されなくなった。それが、「やっちゃいけないことが面白く」「世の中に衝撃を与える快感」に満ちたバラエティーを生きにくくさせている。
曰く、不況になるとバラエティーが増えるのは元々だが、最近は、手間暇かけて作り込んだバラエティーの出る幕がどんどん減っている。放送作家不要、セット不要、安いギャラ、持ちネタがあって、リハーサル不要の若い芸人やタレントを集め、あとは話の上手い司会者を置きさえすれば一丁上がり、のようなものが多すぎる。
曰く、バラエティーの制作者も、旬の芸人やタレントのキャスティングができるというだけの、要領のいい連中が跋扈しているじゃないか。
略
ここに漂っている閉塞感は、おそらくバラエティーだけの問題ではない。バラエティーが民主主義の進展と二人三脚、人と時代と世の中に寄り添い、動かしてきたことを考えれば、同じことが、いまの人と世の中の側についてもそっくり当てはまる、ということであろう。
経済の先詰まり感、政治の停滞感、行政の不透明感、国際情勢の不安定感、地域の尻すぼみ感、家族の孤立感……。21世紀最初の10年間、私たち一人ひとりはこうしたさまざまに気を滅入らせる現実に囲まれて暮らしている。それがなぜ起きたのか分からないまま、誰もがこれら幾重にも押し寄せる閉塞感を肌身に感じながら生きている。
こうした現実に巻き込まれまいとすれば、気の合う者同士、小さく固まって、せいぜい内輪の話題で盛り上がり、憂さを晴らすことくらいしかやることがない。面白くない出来事、不愉快なノイズ、癪に障る連中のことなんか知ったことか。無視を決め込むか、イジメてやって、せせら笑ってりゃいい……とばかりに、あっちでもこっちでもサディスティックな冷笑的気分が湧き上がり、広がっていく。
この小さくまとまった冷笑的気分というものは、見かけほど冷めていなくて、あっという間に匿名集団化し、少数意見や異物の排除に熱狂することがあったり、マスコミの場合には、ターゲットにした人物や現象を突き放し、つるし上げるような集団的過熱取材や集団的過剰同調番組となって暴走することがある。これもまた、この時代と社会で起きていることである。
そんな世の中で、個々人と、個々の家庭と、個々の職場が差し当たってできることといったら、なるたけムダを省き、世間の非難を浴びることないようクビを引っ込めていること。それが、昨今流行りの「コスト削減」と「コンプライアンス強化」の縮み志向ということなのかもしれない。
俺は前に映画等のレビューを書く際、何に気をつけているかと訊かれ、本当に批判したいことは笑うようにしていると答えたことがある。今が相対主義の時代だというなら、そんな連中に真っ向から顔を真っ赤にしても無意味だ。相対主義はずる賢い。こちらは論拠を相対化されてしまえば「無根拠な戯言」と断ぜられるのに対し、連中の根拠を相対化してみたところで「だって相対主義ですもの」の一言で返されてしまう。こちらの反論は反論にすらならない。
そんな時代に何かを批判しようと思ったら笑うしかない――相手の懐に飛び込み、内側から揺さぶるしかないじゃないか。
この笑いは現実逃避としての冷笑的な笑いとは違う……と、自分では思いたい。実際はどうか知らん。だが少なくとも俺は対象を笑うことを通し、何かと戯れたり誰かと連もうと思ったりはしていない。そんなものは無意味だ。
最近は何かを批判することで、冷笑的な態度を取ることで自分を大きく見せようとするが、却って馬鹿を晒す結果になる人間が増えている。
このブログで過去に何度か取り上げた山田悠介の小説とケータイ小説は特にネット上に馬鹿が多い――他人の尻馬に乗っかるしか能がない連中が多いことを示している。在り来たりな「山田悠介やケータイ小説の読者は国語力がない」といった批判を展開したいのではない。むしろ彼らを責めている人間の方に俺は、こんな連中が増えると日本は本気でヤベェなと感じる。
山田悠介の小説を駄作と言う人を俺は何とも思わん。俺自身、面白いと思ったことは一度もない。面白いという人は、それはそれで何かを感じているんだろうからいい。ただ、批判する人間に多く見られるのが、山田語(山田悠介が用いる特異な日本語。最近は編集が本腰を入れて付き合うようになったのか、山田自身の成長か減っている)をコピペして、得意気に「山田悠介の国語力」を笑ってみせる態度。
山田悠介が出てきて何年経つ? その間お前たちはコピペしかしてこなかったのか? 自分の頭で少しは考えたか? ただ世間が批判的な論調を展開する山田悠介という作家に対し、自分も冷笑を向けていれば偉くなれる気がしただけじゃないのか?
ケータイ小説批判にしてもそうだ。初期の人間が作ったテンプレに乗っかるばかりで後は決まり文句を繰り返すだけ。誰かが作った物を消費するばかりで自分じゃ何も作ろうとしない。
スイーツ(笑) うん。それは分かったから。お前自身はどう思ってるのさ
スイーツ(笑) いや。だからそれはもういいって。自分の考えを聞かせてよ。
スイーツ(笑) ('A`)なんだ単なるコピペ野郎か。
山田悠介を国語力がないと笑いながら自分じゃ批判文ひとつ満足に書けない連中も、ケータイ小説をどれ読んでも同じ話にしか見えないと言いながら、自分も決まり文句を繰り返すだけしかできない連中も、実は批判対象と大差ないレベルなんだよ。
この“何かを批判すればするほど、対象と同化してしまう”現象は現在そこかしこで見られる。北朝鮮が核を持っているんだから日本も――なんて言い出す連中は、本人たち気づいてないかもしれないけど、その発言を拾っていくと日本を北朝鮮みたいな世界の嫌われ者にしたがってるとしか思えないよね。実は北の金豚さんと大差ないレベルなんじゃねぇの? と思うときある。相手が無法者だからって、こっちまで無法者になったら非難する権利を失くしてしまうだろ。
あんまり政治の話はしたくないんで山田悠介に戻すと、『リアル鬼ごっこ』が00年代の頭に出たときから山田語はネタとして扱われていて、そこから今に至るまで山田語以上に山田悠介を語る切り口持たないなんて、批評の方が全然レベル上がってないじゃん。これから山田本のレビュー見るとき、山田語のコピペと冷笑的な態度以外に何も示せないような連中の書く物は読まなくていいよ。時間の無駄だ。他人のケツに付いて歩きたいだけだろうが。馬鹿らしい。
どちらも大差ないレベルの連中が受けと攻めに分かれ、狭い範囲でキャンキャン吠え合っているだけなのが現実。
"開局50周年・探そう!ニッポン人の忘れもの"を見て俺が面白くないなと思ったのは、結局、この番組って共通記憶を暖め合って保存しようとしてるだけじゃないのと感じたから。狭い範囲で固まって“あの頃はよかったよね”と言い合いたいだけちゃうんかい、と。残り2夜。最後まで見れば何らかのビジョンを示すのかな。
いつから日本は「あのころはよかった」しか言えない貧しい国になったのかな。それを忘れるため内輪話で盛り上がり、興味ない奴は入ってこなくて良いよって態度で外界をシャットアウトする。
認めない。あたし、こんな国、認めないよ(真面目に漫才してた頃のスピードワゴン井戸田風に)
……まあ、認めないと吠えてみたところで、これが現実なんだわな。
そんなこと言いながら90年代作品のブルーレイ化が楽しみな俺がいる。
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